人が生きている定義とはなんだろう

いきなり会社のセクハラの話とは別の事を書き始めていて、自分の継続力の無さを感じる。

 

いきなりだけども、新型コロナウイルスにより日々の生活が変わってしまった世の中で、印象的な出来事といえば志村けんさんが亡くなった事であろう。

あんなに功績のある人が、沢山の人を笑わせてきた人が、急に意識を失い色んな人に会えず亡くなったのを考えるととても悲しい気持ちになる。

 

地震や豪雨による災害とは違ってどこかで一度おさまったり、一部にとどまる話ではない。ヒトという種族の生き残りをかけた戦いなのだと思う。

終わりがいつ来るのかわからないのは皆んな同じなのに、政府行政の補償とかいう話なんだろうか?このまま対策が見つからないまま、ヒトはコロナに怯えながらも生活をすることになるのではないかと思ったりもする。かかったら治せない、もしくは死に至りやすい難病として。

 

志村けんさんは高齢であったから仕方がなかったのかもしれない。感染の発表があってから亡くなるまでの間、皆んな心のどこかでどうせ治療の甲斐あって回復しましたってなると思っていたのでは?亡くなってからも、息を吹き返すのでは?信じられないなあ…とか思ってたはず。

ところが、遺骨の話になってからはいよいよそうはいかなくなった。と、どこか話が変わったように思った。

人が死を感じるのは、もう温もりをなくしそして焼かれて骨になってしまった時なのかもしれない。

言わば、もう本当に取り返しがつかなくなった時なのかもしれない。

たとえ意識がなく、人工呼吸器を外してしまえば死んでしまう人でも、温もりがあり姿形があり触れられれば生きていると感じる。話ができなくても、自分で動けなくても、存在しているだけでいいと。本当に取り返しがつかない、不可逆的な状態になった、冷たくもしくは遺骨になった状態になるまでは。

そう思うと不足している人工呼吸器を誰につけるのかを決めるなんて恐ろしい事だ。一度死んでしまった人は戻らない。

脳死の人がいて、人工呼吸器で生きながらえてることに果たして意味があるのかと考えた事もあるけれど、死んでないという状態はまだ生きているという事なんだ。

なんで脳死について考えたことがあるのかって話はまた別に書こうかな。